親の気づき・子の想い


NO.3

「学校へ行きたくなかったあの頃」
               
   25歳  男性 
 私が西の平へ顔を出すようになってから早くも約5ヶ月が経とうとしています。きっかけは、もう一度頑張ってみる為に転校した中学校で、同じ運動部に所属していた友人のお話からでした。私は社会にでて仕事をするようになって、「自分がこの世に生まれてきた意味」みたいなものについて考えるようになり、小さな事でもいいから自分にできる事を探していました。
 私が不登校を始めたのは小学校3年生くらいだったと思います。最初は2ヶ月に1日くらいだったのが、進級するごとに増えて、中学2年の時に母、学校、先生、友人、勉強等に疑問や不信感を抱いていて、学校へ通う事をやめました。私自身その先の人生がどうなってもいいとは思っていませんでしたが、今考えてみてもそうするしかなかったような気がします。今だから言えますが、まわりの目がすごく気になり、みんなと同じようにできないとすごく不安でたまらなくて、恥ずかしくて、自分に父という存在がいない劣等感や母の期待、頭の上で大人という権力でものを言う先生達に押し潰され、苦しくて、おまけに負けず嫌いだったので反抗してやりたかったのも事実です。自分が気に入らないと、誰かれかまわずに突っ掛かって言い争いになることもありましたし・・家まで先生が押し掛けて来て、頬を叩かれ学校へ強制的に登校させられた時もありました・・。原因はたくさんあったようです。
 私の家は母子家庭で、父の姿を写真ですら見た事がありません。母は私を養う為に仕事をし、私は叔母の家に小学校2年生まで預けられていました。小学校3年生になって母と一緒に暮らす事になったときに、母と私の間には、そのときまでコミュニケーションもスキンシップもほとんど無かった為に(相手の気持ちをもう少し分かろうとする思いやりの姿勢があれば良かったかもしれません)考え方や気持ちの上での衝突が絶えませんでした。私は〔一緒に暮らす〕={いろんな事を話したり、遊んだり等}に対し母は〔一緒に暮らす〕={物事分かる歳になったから放っておいても大丈夫}だったようです。
 やがて、その小さな衝突が不登校になり、いろんな不満がつのったイライラから家庭内暴力へ発展して、金属バットを振り回してガラス、襖、たんすなどを壊しまくり、私の感情的になった暴言が聞こえて近所の人に警察へ通報されたこともありました。母が耐えられなくなって家に帰られなくなったとき米と醤油で飢えをしのいだこともありました。
 母は悩んだ末に児童相談所へ行き、私を施設へ入所させることも考えていたようです。何が書いてあったか分かりませんが、児童相談所から来た封書を破って捨てたことも、いまだに鮮明な記憶として残っています。私だってやりたくてやったわけではなく、自分を止めることが出来なかったのです。精神的にかなり子どもだったかもしれません。母も私もぎりぎりの選択だったのです。間違った選択をすれば、2人ともこの今を生きていなかったかもしれません。幸いな事にこの出来事の後、仙台市内に新設の中学校ができるという話を聞いた母が、私の将来について真剣に話をしてくれて、やり直す事ができて現在に至ります。
 このまとまりのない文を読んでいただき感謝します。私の記憶に残っている部分を簡単に書いてみました。読む人によって考え方は違うと思いますが、どうお考えになりますか!?私なりには、多少母に対する甘えがあったかもしれません。でも私の場合は、このような形でしか自分の気持ち(意思)を表現できなかった事を分かって欲しいのです。今現代に生きる同年代の若者のほとんどが同じような悩みを抱えているのではないでしょうか?母に対する憎しみを抱いた事もありましたが、今ではそれもすっかりなくなり、その出来事によって人の弱さや痛みを知る事ができ、他の人では感じることのできない貴重な体験や勉強ができたと思います。親友、友人、人生の先輩と心から言える人達に囲まれて、今を楽しく生きられることがうれしくてなりません。私にとって必要な出来事(時間)だったのだと認識しています。母には償いのしようがないくらい迷惑をかけましたが、この世に生んでくれたことに感謝しています。今となっては母も私も「そういえばそんな事もあったね!!」って笑って話せますからo(^-^)o
〜読んで下さった方のご意見、ご感想等ありましたらお聞かせいただけませんか〜
フリースクール西の平通信31号より
(2002年1月25日発行)


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